2009年06月30日

学生デモが発生すると保革の対立は激化し

12月に北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。同月には胡の後任として改革派ながら穏健派と目された趙紫陽が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。趙には経済・政治の両改革のいずれにも反自由化の影響が及ばないよう指示を出したが、鄧小平が1988年夏から始めた公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は経済の主導権を保守派の李鵬らに渡すことになる。
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胡は失脚後、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送っていたが、2年後の1989年4月8日に出席していた政治局の会議上で心筋梗塞を起こし、死去した。

翌16日には、同国の民主化に積極的であった胡の死去を契機に、中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。

これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行い、その後民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。また同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。

2009年06月12日

マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンは社会科学の

マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンは社会科学の中に、確かな、積極的で否定的な反響のようなシステム理論の学際的な原則をもたらすために同じく大規模な対話を行った。ジョン・フォン・ノイマンは、コンピュータを使わず、鉛筆と紙だけでセル・オートマトンと自己複製システムを発見した。アレクサンドル・リャプノフとアンリ・ポアンカレはまったくどんなコンピュータも用いずにカオス理論の基礎に取り組んだ。

同時にハワード・T・オーダム(放射エネルギー生態学者)は全体的なシステムの研究がどんなシステム尺度においてでもエネルギー論と運動学を描写することができる言語を必要としたことを認識した。彼は、電子工学の電気回路言語に基づいてこの役割を満たすために一般的なシステム、あるいは万能の言語を発展させた。この言語はエネルギーシステム言語として知られるようになった。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

統計上の仕組みと複雑なシステムズ、テキサス大学オースチン校、における研究のためのイリヤ・プリゴジン、プリゴジンセンターが、生物系のために類縁体を申し出ることを提案して、緊急の固有性のために「平衡から遠く離れたシステム(英:far from equilibrium systems)」を研究した。

フランシスコ・バレーラとウンベルト・マトゥラーナのオートポイエーシスはこの分野における更なる開発である。

オンラインの論文で、Béla H. Bánáthyは「システム調査」という題の論文に次のように記した。

「システムの視点から言うと、システム調査に重要なシステム調査の自制に基づいている世界観はシステムの構成概念であるということです。最も一般的な意味で、システムが関係のウェブによって結ばれて、そして一緒に加入された地域の外形を意味します。プライマーのグループは全体行動をしてシステムをメンバーの間の関係を家族として定義します。ベルタランフィはシステムを「立ったままの関係の要素である」と定義しました。「参加することと関係を作り出すウェブを統合することは全体の新興の特性を作ります。全体のこれらの特性は部分の分析に見いだされないかもしれません。これは部分で見られることができないシステム理論は完璧の価値を持ちます」システム調査はシステムそのものなのです。 概念的なシステムとして、それは4つの相関関係を持っています、そして内部に一貫した局面が全体として作用しているようにします。システム哲学、システム理論、システム方法論そしてシステム応用です。さらに、システム調査が、規律正しい良い調査の2つの種類を受け入れます;その結論指向の照会モードはシステム知識を引き起こします、その決定指向の照会モードはシステム知識を論述と実世界の状況を取り上げるシステム方法の選択肢に適用します。」

2009年06月08日

視点の共通性は現代の倫理学者ロールズ

この視点の共通性は現代の倫理学者ロールズやマッキンタイアによって洗練され、新しいコンセンサスを築いた。道徳とは利害が対立する人同士のジレンマを解決することであり、哲学者エドムンド・ピンコフスはこれを「板挟み倫理学」と呼んだ。心理学では倫理的行動主義(道徳は経験によって形成される)と発達主義(経験は道徳心の発達を助ける)に大きく分けられる。バラス・スキナーは道徳も連合と強化の産物だと見なした。発達主義に属するローレンス・コールバーグは子供たちがどのようにジレンマ(例えば瀕死の妻を助けるために薬を盗んでも良いか?)を解決するのかを調査した。コールバーグは道徳の基盤を公正さであると見なしたが、キャロル・ギリガンはコールバーグがそれ以上に(少なくとも女性にとっては)親切さの倫理が重要であると主張した。他者への思いやりや世話は正義に関する判断の副産物ではない。最終的にコールバーグを含めた道徳心理学者は公正さと親切さのどちらも重要であると受け入れ、道徳とは個々人を守ることであると同意した。個々人を守らず助けもしない規範は単なる社会的慣習であると見なされた[16]。
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道徳に関する問題でもっとも論争的だったのは規範と道徳の区別である。正義、権利、危害や幸福に関するルール(例えば盗むな、殺すな)はどの社会でも変わることがない。一方で子供たちが教えられる慣習的規範(例えば大人を呼び捨てにするな)は社会や伝統によって大きく異なる。しかし大部分の文化ではこの二つは密接に繋がっており、しばしば混同される。ドナルド・ブラウンによれば規範の存在もヒューマン・ユニバーサルである。そしてどの文化でも他人が規範に従っているかどうかを気に掛け、違反者へは懲罰的な態度を引き起こす。

コールバーグの元学生の心理学者エリオット・テュリエルは、道徳とは人が他人と関わる上での規範だと述べ、個人中心的な道徳観を提唱した。テュリエルによれば、子供はすでに5歳頃には慣習的規範と道徳判断の区別ができ、道徳判断は人に対する危害、権利の侵害、主張の衝突などの社会的要因を除けば、社会システムから影響を受けない。そして規範の理解と道徳の理解は平行して発達する。コールバーグとその後に続いた実験的な研究は、精神分析と行動主義に替わって道徳心理学の中心となった。

2009年04月24日

南極星

南極星(なんきょくせい)とは、北極星に正対する概念としての、天の南極またはそれに非常に近い位置に存在する明るい恒星のことである。

また、カノープス(りゅうこつ座α星)の漢名「南極老人星」の略でもある。

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現在の南極星
21世紀現在、天の南極に最も近いバイエル天体は、赤緯?88°、5.47等級のはちぶんぎ座σ星(ポラリス・アウストラリス)であり、この星が南極星とされることがある。しかし、5.47等級は天測に使えるほど明るくはなく、南極星と呼ぶに値しないとされることもある。

はちぶんぎ座に明るい星はなく、最輝星であるはちぶんぎ座ν星でも3.76等級しかないうえ、赤緯は?77°で天の南極からは大きく離れている。これらのことから、「現在、南極星に該当する天体は無い」という見解もある。

過去・未来の南極星
地球の歳差運動により、2万6000年周期で南極星は入れ替わる。

紀元前3000年頃にはみずへび座α星が南極星だった。
1万2千年後にはカノープスが南極星になる。

2009年04月07日

ガムラン

ガムラン (gamelan) とは、インドネシアの各地で発達している伝統的な器楽合奏音楽の総称である。しかし、元来は、インドネシア、ジャワ島中部の伝統芸能であるカラウィタンで使われる楽器の総称であった。「ガムル(たたく、つかむ、あやつる)」という動詞の名詞形で、その名の通り、叩(たた)いて音を出す楽器がほとんどである。

ジャワ島のガムランの楽器に使われる原材料は、青銅が主であり、具体的には青銅製の鉄琴、銅鑼などの類となる。青銅製ではなく、鉄製のものなどもあるが、青銅製のものが最も音が美しいとされている。ただし、インドネシアでは青銅の元となる錫はほとんど産出されず、ほとんどがマレーシアから運ばれたものであり、かつての青銅文化であるドンソン文化がマレー半島を経由してインドネシアに伝わったことを体現している。

現在では、周辺のバリ島の鉄琴や銅鑼などの楽器もジャワ島における用法にならい、ガムランと呼ばれる。さらには竹製のガムランも広く見られるようになっている。

青銅楽器 [編集]
青銅楽器は、鉄琴と銅鑼の二つのタイプに分かれる。さらに、鉄琴は、鍵盤が木枠の上に釘と緩衝材を用いて直接置かれるサロンと、鍵盤の穴に紐を通し、木枠の両端に吊り橋状にぶら下げたグンデルとに分かれる。サロンは重厚な響きが特徴で、それに対してグンデルは重厚感はないものの長い残響を得ることができる。

銅鑼は、節目楽器であるゴンと、旋律、リズムを刻むためのボナンに分かれる。

竹製楽器 [編集]
竹製楽器の種類には、打ち付けたり、吹いて音を出す竹の閉管であるブンブン、その発展型であるティンクリック、竹琴、グンタン(竹の一弦琴)、スリン(竹笛)などがある。

各地のガムラン楽器 [編集]

中部ジャワのガムラン [編集]
中部ジャワのガムランは、単にジャワ・ガムランと呼ばれるもので、以下のような種類がある(ジャワ語の発音をカタカナで表し難いため、楽器名のカタカナ表記には揺れがある)。

グンデル・バルン Gender barung(鉄琴の類、ビブラフォンのようなもの)
グンデル・パヌルス Gender panerus(鉄琴の類、ビブラフォンのようなもの)
スルントゥム Slentem(グンデル・パヌンブン Gender panunbung とも言う、鉄琴の類、ビブラフォンのようなもの)
サロン・ドゥムン Saron demung(単にドゥムンとも言う、鉄琴の類)
サロン・パヌルス Saron panerus(サロン・パキン Sarong peking とも言う、鉄琴の類)
サロン・バルン Saron barung(ジョグジャカルタではサロン・リチッ Saron ricikと言う、鉄琴の類)
ボナン・パヌンブン Bonang panunbung(ゴング・チャイムの類)
ボナン・パヌルス Bonang panerus(ゴング・チャイムの類)
ボナン・バルン Bonang barung(ゴング・チャイムの類)
ゴン・アグン Gong ageng(単にゴンとも言う、銅鑼の類。ゴン・グデ Gong gedhe とも)
ゴン・スウアン(単にスウアンとも言う、銅鑼の類)
クノン Kenong
ジャパン(クノンに似た楽器)
クンプル(クンポル) Kempul(銅鑼の類)
クトゥ(クト) Ketut
クンピャン Kempyang
ブドゥック(超大型太鼓)
クンダン・アグン Kendhang ageng(クンダン・グデ Kendhang gedhe とも言う、大型太鼓)
クンダン・クティプン(クンダン・クティポン) Kendhang Ketipung(単にクティプン(クティポン)とも、小型太鼓)
チブロン Ciblon(中型太鼓)
ガンバン・カユ Gambang kayu(単にガンバンとも言う、木琴の類)
ガンバン・メタル(鍵板が金属製品のガンバン)
ルバブ(ルバッブ) Rebab(二弦の擦弦楽器、名称はアラブの楽器名から)
クマナ Kemanak(体鳴楽器。バナナの形をしている)
スリン(竹の縦笛)
チェレンプン(チュルンプン) Celempung(ツィターのような楽器)
シトゥル Siter(琴のような楽器、ツィターのような楽器)

ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ

2009年03月23日

廃車後の処置

解体される場合は、動力車であれば解体場まで自力回送され、解体を待つことになる(解体場に着いた時点で籍が抜かれ、正式廃車となる)。動力がない場合は他の動力車により牽引されることになる。解体場は車両基地や工場の片隅を使用することが多い。近年は、環境上の問題から、自社に解体場は持たず、車両基地で2つないし3つに輪切りにしてトラックに積んで解体業者まで陸送される場合も多くなっている。例えば、群馬県館林市内にある東武鉄道の北館林荷扱所には解体業者が駐在し、自社の廃車車両の処理だけでなく、他の大手私鉄や地方私鉄の廃車車両の解体も引き受けている。そのため相模大野(小田急電鉄)や若葉台(京王電鉄)などの他社の車両基地からも車両がトラックで陸送され、解体されている。

解体の順番が来ると、編成を解かれ、入れ換え機械により解体線に移されて、解体作業が始まるが、大体、次のような方法で解体されている。

機器や内装装置を取り外した後、バーナーで真横に焼き切り、重機(油圧ショベルのアタッチメントを替えたり、クレーンなどを使う。フォークリフトを使う場合もあり)を使って上部を外す。さらに下部も台車から外す。最終的にさらに裁断する。
機器や内装装置を外した後、重機(油圧ショベルのアタッチメントを解体用のものに替えて使用する)を使って裁断していく。
重機は使用せず、バーナーのみ使い手作業で解体していく。補助的にフォークリフトや小型クレーンを使うこともある。
JRでは、解体場が複数あるため、3つの方法すべてで解体されている(JR東日本の場合、解体業者との契約は各工場毎のため旧大船工場では1,旧大宮工場大成地区(現在の鉄道博物館のある場所)では2など、各工場で異なっていた)。
解体業者に委託している鉄道会社の場合、既に台車や機器が取り外された車体のみで送られて来るので、2の方法が多い。
東京地下鉄や東葉高速鉄道などでは特に機器や内装装置は外さず、そのまま重機での解体後に分別している。
西武鉄道などでは重機は使わず、3のバーナーによる手作業で解体している。
東海道新幹線浜松工場では、1の形を応用した専用の設備を使用する(まず屋根を外す→妻面を外す→車体下部を電動カッターで切断→切断した車体と床をまとめて細かく切断、となる)。
半鋼車が多く環境規制がゆるやかだった時代には、車体に放火して木造の内装や座席等を焼却し、焼け残った構体等のみを解体する方法も用いられた。大気汚染の原因となるなどの問題から、日本の現行法規では禁止されている。
解体された後は素材毎に分別してリサイクルされる(例えば鉄屑は製鉄所へ運び再生鉄へ)が、再生できないものについては産業廃棄物としての処理がなされる。

取り外した機器などは他の車両の予備として残されたり、他の鉄道事業者向けに中古部品として販売されることもある。

ナンバープレートなどは車両基地一般公開やイベント時に即売会や鉄道会社の通販などで販売されることもある。しかし、近年では悪戯防止や金儲けの転売を阻止するためなどの理由で、販売されず鉄道会社の倉庫に死蔵されたり、除籍と同時に廃棄処分されることも多くなっている。また、過去にイベントで販売された部品の塗料などにアスベストが含まれていることが発覚し、回収や除去などを行っている会社もあることから、今後はさらに販売されることは少なくなると思われる。
すぎやま バイオ ファイト チグラフィ 寛和 トリタン ビストロ クウェート スペシャル トップス スラバ フェン サイネ 赤ひげ ピペット スクワレ ミイアエラ スイッチ ソース ルーター シティー ハイオネロ メキシコ メグマ オルゴール フーファ タンデム フェース 冬の南風 セイフ バイポ ブラウニー フランネ スマス ギャンブル おーたむ バース 古都の ケワキ ルーイク レット リングアウ ド小法師 ズンイン レングス バック テクニ スラブ 見返り NO1ラン

いずれにしても、廃車となった車両が解体されるまでには数日程度の時間しか必要としない。

他の鉄道事業者への譲渡 [編集]
廃車になった後、他の鉄道事業者へ譲渡される車両もある。大都市では性能的に古くなった車両でも、車体や機器は極端に劣化しているわけではなく、地方の私鉄から見れば十分な品質性能を保っているし、線路がつながっていたり系列会社であったりすれば、なおさら交渉もスムーズに行われ易い。例えば能勢電鉄の車両はすべて元阪急電鉄の2000系・2100系・3100系の系列である。また、旧性能電車を使用していた頃の新京成電鉄は京成電鉄から譲渡を受けていた。なお、車両を丸ごとだけではなく、台車や車体、あるいは部品1個単位といった、いわゆる「バラ売り」で譲渡されることがある(元営団日比谷線の3000系電車が銀座線の2000形電車や京王電鉄の5000系電車の譲渡用に台車を提供した例や営団東西線5000系の冷房用電源装置を長野電鉄が通勤車冷房化用に譲り受けた例など)。

太平洋戦争中は、鉄道車両も統制物資の一つとなり、中古車両の譲渡も政府機関の鉄道軌道統制会を通じて行われた。戦後の復興期には輸送状況の逼迫を打開するため、大型の新製車両を大手私鉄に割当てる代わりに、その会社の保有する小型車や中型車の地方私鉄への譲渡義務付けが政策的に行われたことがある。

国鉄63系電車#63系電車の私鉄導入も参照

譲渡される場合は、相手の鉄道会社の設備に合わせた車両改造が必要になる。主なものは次の通り(すべてが実施されるとは限らない)。

先頭車化改造(具体的には運転機器の取り付け(主に短編成化される時))
列車便所の取り付け
ATS・ATCなどの改造(取り付け・取り外し)
モーターの改造(搭載車両の変更、出力の変化、付随車化など)
台車の改造・交換(軌間の異なる場合のみ)
集電装置の改造(第三軌条集電→架空線集電など)
また、転用先がワンマン運転をしている場合、当該路線のニーズに応じて、自動放送装置、デッドマン装置、緊急停止装置、運賃回収機、乗車駅証明書発行機、バックミラーの設置が行われたり、ドア回路についても特定ドアのみの開閉が可能なように改造が行われる。

また、転用を期に各部のリニューアルが行われたり、冷房が取り付けられたりすることも多い。

2000年代では首都圏を中心に各社が車両交代時期に入り、廃車が続出しているが、そのまま解体されることの方が多い。一般形電車と呼ばれる、安価かつ他社車両と同規格で造れる電車が出現したのも一因となっている。

これは鉄道会社によっても考え方があるようで、積極的に譲渡先を探す鉄道会社もある。例えば、東急電鉄では昔から積極的に譲渡先を探すようで、そのために地方で使用される車両が現在でも多いようである。

地方私鉄に比較的多く譲渡された国鉄(JR)・大手私鉄の車両 [編集]

譲渡元でいまだに稼動している事例 [編集]
国鉄キハ35系気動車(現在はJR東日本にのみ在籍)
関東鉄道(常総線)
会津鉄道
東急7000系電車・7700系電車
弘南鉄道(弘南線・大鰐線)
十和田観光電鉄
福島交通
秩父鉄道
北陸鉄道(石川線)
水間鉄道
東急8000系電車
伊豆急行
東急8500系電車
伊豆急行
長野電鉄(長野線)
西武101系
上信電鉄
秩父鉄道
流鉄
三岐鉄道(三岐線)
京王3000系電車
上毛電気鉄道
松本電気鉄道
岳南鉄道
北陸鉄道(浅野川線・石川線)
京阪3000系電車(初代。現8000系30番台)
大井川鐵道(大井川本線)
富山地方鉄道
※以上には譲渡先で全廃となったものも含まれる。

譲渡元で既に全廃している事例 [編集]
国鉄101系電車
秩父鉄道(秩父本線)
相鉄2000系電車
銚子電気鉄道
日立電鉄
伊豆箱根鉄道
東急5000・5200系電車
福島交通
上田交通(現・上田電鉄)
長野電鉄
松本電気鉄道
岳南鉄道
熊本電気鉄道
西武401系電車
上信電鉄
三岐鉄道(三岐線)
近江鉄道
西武701・801系
上信電鉄
流鉄
伊豆箱根鉄道(駿豆線)
三岐鉄道(三岐線)
京王5000系電車
わたらせ渓谷鐵道
富士急行
高松琴平電気鉄道(琴平線)
伊予鉄道
一畑電車
営団2000形電車
日立電鉄(現・廃止)
銚子電気鉄道
営団3000系電車
長野電鉄
阪急2000・2100系電車
能勢電鉄

2009年03月07日

メーコン (重巡洋艦)

メーコン (USS Macon, CA-132) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ボルチモア級重巡洋艦の11番艦。艦名はジョージア州メーコンに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
メーコンは1943年6月14日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1944年10月15日にチャールズ・F・ボウデン(Charles F. Bowden)メーコン市長夫人によって進水する。1945年8月26日にフィラデルフィアでエドワード・E・パレ艦長の指揮下就役した。
ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

メーコンは整調航海後まもなく第8艦隊へ配属され、1946年4月19日にノーフォークを出航、カリブ海での艦隊演習を行う。5月7日にニューヨークに戻り、6月4日にノーフォークに到着、運用開発部隊の試験船の任務に就く。

続く4年間にわたってメーコンは定期的にフィラデルフィア海軍造船所で試験機材の装着が行われた。新型機材の試験船としての任務の一方、対空砲撃訓練艦として予備役兵を大西洋およびアメリカ合衆国沿岸の湾で訓練した。1948年の夏には海軍士官学校生を乗艦させ訓練巡航に赴く。メーコンは1950年4月12日にフィラデルフィアで予備役となるまで実験任務を継続した。

朝鮮戦争が勃発し、1950年6月にメーコンは再就役が命じられる。1950年10月16日にフィラデルフィアで再就役し、回復訓練の後大西洋の第6巡洋艦隊旗艦となる。

1959年の終わりまでにメーコンは6回の海軍兵学校生の訓練巡航を夏に行い、秋から冬にかけては第6艦隊の一部として活動した。1956年のスエズ動乱時には地中海東部の偵察巡航を行い、1957年6月12日にはジェームズタウン設立350周年記念の観艦式に参加した。1957年9月には北海と北極海で行われたNATOの演習「ストライク・バック」に参加した。

これらの任務に加え、メーコンは試験機材の装着が続けられた。1956年1月から3月にかけてミサイル発射装置が装備され、大西洋艦隊の巡洋艦として5月8日に初めてレギュラスミサイルをノースカロライナ州沖で発射し、その後も大西洋艦隊での任務終了までミサイル発射試験を継続した。

1959年1月19日から20日にかけての夜に、カルタヘナからマルセイユへの巡航途中メーコンは海上で火災を発生したイタリア商船マリア・アマタの救助に向かう。メーコンの乗員は消火作業を行ったが、船は間もなく沈没した。その後メーコンは商船の乗組員をスペインのバレンシアへ輸送した。

メーコンはノーフォークを出港し、1月の残りを海軍の楽団を乗せて南米の港への親善訪問を行う。この巡航途中、バンドのメンバー6名がジュセリーノ・クビチェックブラジル大統領の公式晩餐会で演奏を行うため飛行機で向かったが、墜落事故で全員死亡した。2月28日にブエノスアイレス港で、アルゼンチン海軍も参列して追悼式典が行われた。巡航は3月10日にリオデジャネイロで終了し、メーコンはボストンに帰還し、大西洋艦隊での任務を再開する。

2009年02月19日

レキシントン・コンコードの戦い

レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)は、1775年の4月19日に起こった、アメリカ独立戦争の始まる契機となった英米間の戦闘。
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イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードにあったアメリカ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を実施した。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突、レキシントンとコンコードにてイギリス軍と民兵隊の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破した。規模は小さいながらアメリカ独立戦争の緒戦を飾るものとなった。

4月18日、フランシス・スミス中佐の指揮で約700のイギリス軍正規兵に、マサチューセッツ民兵が武器を隠していると報告のあったコンコードの倉庫を確保し破壊せよという命令が出た。植民地の愛国者達はこの日の数週間前に、イギリス軍が捜索を行おうとしているという情報を掴んでおり、軍需物資のすべてではないがほとんど全部を安全な場所に移していた。イギリス軍の遠征の前の夜にもその作戦計画の詳細を掴んでおり、この知らせは直ぐに民兵達の間に流されていた。

最初の銃弾はレキシントンで日の出とともに放たれた。民兵は数的に劣勢だっだので撤退した。数時間後コンコードのノースブリッジにいた別の愛国者兵がイギリス軍の3個中隊と交戦し損害を与えた。野戦での数回の戦闘後に今度は数的に劣勢になったイギリス軍が撤退した。

民兵達はその後も陸続と集まり続け、ボストンへ向けて撤退するイギリス軍を追ってかなりの損害を与えた。スミス遠征隊はコンコードからレキシントンに向かう途中で、ヒュー・パーシー指揮の増援隊の援護を受けた。総勢約1,700名となった遠征隊は撤退中も激しい銃火に曝されたが、最終的にはなんとかチャールズタウンまで辿り着いた。

イギリス軍は軍事機密を保つことに失敗し、敵対的地域での作戦行動に必要な速度にも欠けていた。結果として武器弾薬の押収はほとんど失敗した。イギリス軍の多くはボストンに撤退できたが、その夜からマサチューセッツ民兵が周辺地域を抑えて、ボストン包囲戦の始まりとなった。

「一発の銃声が世界を変えた」("shot heard 'round the world")という有名な言葉はラルフ・ウォルド・エマーソンの「コンコード賛歌」に出てくる。

イギリス軍は植民地人によって、赤服とかロブスターの背中とか、時には悪魔と呼ばれていた。1768年以降ボストン市を軍事占領し、耐え難き諸法を押しつけるために海軍や海兵隊まで使って増強されていた。総督のトマス・ゲイジはボストン市を一歩外に出ると最早管理できているとは言えなかった。そこでは多数派の愛国者と少数派の王党派の間の緊張関係がその程度を増しつつあった。ゲイジは紛争を避けるために愛国者民兵の軍需物資を取り上げようと考え、小さな機密の素早い作戦行動を行ってきた。これらの作戦は1度はイギリス軍が成功したものの、愛国者達は「火薬警鐘」と呼ばれるしくみで流血沙汰になる前に作戦を失敗に終わらせ続けた。ゲイジは自分では自由の友であると思っており、植民地総督と占領軍指揮官としての役割を分けておこうとした。イギリス本国の下院議員で哲学者のエドマンド・バークはゲイジのマサチューセッツでの錯綜した位置付けについてイギリスの議会で次のように証言した「一般のイギリス人は他のイギリス人を隷属させるように説得するには適していない民族である」。

ダートマスの指示およびゲイジの命令
フランシス・スミス
in 17631775年4月14日、ゲイジは本国の国務大臣ダートマス伯爵の指示を受け取った。それはコンコードに武器を隠していると思われる反逆者を武装解除し、その指導者を投獄せよというものだった。ダートマスはゲイジにいくらかの裁量の余地を与えた。

4月16日の朝、ゲイジはミッチェル少佐に命じて約50名の騎馬偵察隊を周辺の田園地帯に派遣し、おそらくは馬を乗り回している愛国者の伝令を拘束するようにし向けた。この偵察隊の振る舞いには過去にボストンから送り出された時とは異なるものがあり、暗くなっても帰らず、旅人にはサミュエル・アダムズやジョン・ハンコックの居場所を尋ねた。このことで地域住民には警告を与えその準備を強化させることになったが、イギリス軍はそこまで意図していなかった。特にレキシントンの民兵は、ボストンからの伝言は来ていなかったものの、その夕刻には兵士を召集し始めた。ある農夫は暗闇になっていたのでイギリス軍の偵察兵を仲間の男と見誤り、「正規兵がやってくるのはいつなのか聞いているかい?」と尋ねた。農夫は頭を刀で切られた。

4月18日の午後、フランシス・スミス中佐はゲイジの命令書を受け取ったが、それには彼の部隊を連れ出すまでは中を読むなと言う指示も付いていた。その命令は、「最速でかつ隠密裏にコンコードへ向かい、あらゆる軍需物資の保管所を確保し破壊すること。しかし兵士達には住人を襲ったり個人財産を侵したりしないように言い含めること」となっていた。ゲージは明らかに自分の裁量を考え、反逆者達の指導者を逮捕するための文書は発行しなかった。

愛国者達の情報網の成功
反逆者達の指導者は、ポール・リビアとジョセフ・ウォーレンを除いて、すべて4月8日までにボストンを離れていた。愛国者達はダートマスのゲイジに宛てた秘密の指令について、ゲイジが受け取るよりもはるかに早くロンドンの情報源から入手していた。サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックはボストンから逃れ、安全であろうと思われたレキシントンにあるハンコックの親戚の家、ハンコック・クラーク・ハウスに滞在していた。

マサチューセッツ民兵は実際にコンコードに武器や火薬などの物資を集めていたが、さらに西のウースターにも大量の軍需物資を集めていた。イギリス軍士官がコンコードに至る道路を検分しているという情報を得ていたので、4月8日、町の者に付近の他の町に物資を分散しておくように指示した。

ゲイジ将軍の妻
マーガレット・ケンブル・ゲイジイギリス軍の作戦は将校達にもまた作戦を実行する士官にも明かされていなかったにも拘わらず、愛国者達は気付いていた。その情報源がゲイジのニュージャージ生まれの妻、マーガレット・ゲイジだったという考慮すべき推測がある。マーガレットは植民地に対する同情心があり、ジョセフ・ウォーレンとも親しく付き合っていた。

4月18日の夜9時から10時の間、ウォーレンはウィリアム・ドーズとポール・リビアに国王の軍隊がボストンをボートで離れてケンブリッジに至りそこから陸路レキシントンとコンコードに向かおうとしていると伝えた。ウォーレンの情報は、イギリス軍がその夜に目指していることはサミュエル・アダムズとジョン・ハンコックの逮捕である可能性を示唆していた。ウォーレン達はイギリス正規兵がコンコードに向かうことについては、ほとんど心配していなかった。コンコードの軍需物資は実のところ安全であり、レキシントンにいる彼らの指導者二人がその夜の危険性を認識していないと考えた。リビアとドーズは二人に警告し、あわせて近くの町の愛国者達に警報を発するために送り出された。

民兵への警告
ドーズは馬で南の陸路を通りボストン・ネックを横切りグレート・ブリッジを渡ってレキシントンに向かった。リビアはまずチャールズタウンに合図を送るように指示してから、北の水路を通って出発した。チャールズ川を手漕ぎボートで渡り、停泊しているイギリス海軍の軍艦HNSサマーセットの横をすり抜けた。この時間帯に船で渡ることは禁じられていたが、リビアは無事にチャールズタウンに上陸し、馬でレキシントンに向かい、イギリスの偵察兵を避けながら途上にある家々に警告を触れて回った。警告を受けた家の男達とチャールズタウンの愛国者達は北へ向けて他にも伝令を放った。

リビアとドーズがレキシントンに着くと、ハンコックとアダムズとの4人でそこに集まっている民兵の状況について議論した。彼らはボストン市を離れた軍隊は2人を逮捕するだけの目的にしては大きすぎるので、ねらいはコンコードにあると結論づけた。レキシントンの男達はあらゆる方向に騎馬の伝令を放った(なぜかは分からないが南のウォルサムだけははずされた)。リビアとドーズもコンコードへ向かうことになった。二人は午前1時にサミュエル・プレスコットに会った。リンカーンで3人は第5連隊のミッチェル少佐指揮するイギリス軍偵察兵に遭遇し、プレスコットのみが追手を逃れてコンコードに警告するために向かった。コンコードからも騎馬の伝令が放たれた。

リビアとドーズは他の伝令達と共に、火薬警鐘の後、何ヶ月も前に慎重に取り決めておいた柔軟な「警告と集結」のしくみを始動させた。「警告と集結」は緊急時に広く注意を伝達し素早く民兵を集結させるための仕組みであり、以前の情報網を更に改良していた。植民地の人々は開拓時代のインディアンとの戦いの中で早くからこのような仕組みを使っており、その後のフレンチ・インディアン戦争ではむしろ廃止されていた。伝言を運ぶ早馬に加えて、鐘や太鼓、合図の鉄砲、大かがり火、さらにトランペットを使って、町から町へ急報を伝え、500名以上のイギリス軍正規兵がボストンを離れたから民兵を集めよという意志が東マサチューセッツの多くの村々にまで伝えられた。この素早い警告は十分な数の非正規兵を集めて、その日後刻にイギリス軍に重大な損害を与えるための重要な役割を果たした。サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックは最終的に安全な場所、まずはバーリントンへ、後にビラーリカに移動した。

2009年02月03日

三種の神器

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

神器とは神の依代(よりしろ)を意味する。

天皇の即位に際し、この神器の内、鏡と剣のレプリカ及び勾玉を所持することが日本の正統なる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。但し過去には後鳥羽天皇など神器がない状態で即位したケースもあり、必ずしも即位の絶対条件ではない。

三種の宝物とは、「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」・「天叢雲剣」(「草薙剣」)のこと。神器という言い方が一般化したのは南北朝時代ごろからと言われている。

『古事記』では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を授ける。『日本書紀』本文には三種の神宝(神器)を授けた記事が無く、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」と記している。

古代において、鏡、玉、剣の三種の組み合わせは天皇家だけに特有のものではなく、一般に支配者の象徴であったと考えられ、仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を差し出して恭順の意を表している。また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出している。また壱岐市の原の辻遺跡では最古の鏡、玉、剣の組み合わせが出土されている。

現在では八咫鏡は伊勢神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されている。

また皇居には八咫鏡と天叢雲剣の形代があり、八咫鏡の型代は宮中三殿の賢所に、天叢雲剣の形代は八尺瓊勾玉とともに御所の剣璽の間に安置されているとされる。

儒学伝来以後、鏡は「知」、勾玉は「仁」、剣は「勇」というように、三種の神器は三徳を表わすという解釈もある。

今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間で行われた「剣璽等承継の儀」において神器を継承した。

なお、これら3器を「三種の神器」と総称する用例は、『平家物語』、『神皇正統記』などに見える。また『神皇正統記』では、「三種の神宝(さんしゅのしんぽう・みくさのかむだから)」とも称される。

各神器と伝承
記紀の伝承では、三種の神器は天照大神の神代(よりしろ)として天孫降臨の際に天照大神より瓊瓊杵尊に授けられたとされている。

記紀神話では、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。のち鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。現在は伊勢神宮の皇大神宮に奉斎されている。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも称される。記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとし、その時の名前は都牟刈の太刀(偉大な力を持つ太刀)であった。出雲国風土記では、出雲国意宇郡母里郷(現;島根県安来市)にてオロチ退治が行われたともされている。剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡された事になっている。一説には鍛冶の神である天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)が作ったと言われる。

皇居内に天照大神の御神体として八咫鏡とともに祭られていたが、崇神天皇(伝紀元前148年-紀元前30年)の時代に皇女豊鋤入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祀るようになり、途中で垂仁天皇(伝紀元前69年-70年)の皇女倭姫命に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に落ち着いた。その後、倭姫命から、蛮族の討伐に東へ向かう倭建命に渡された。この時、倭建命が野火攻めから脱出する為に、この太刀で草を薙いだ事が草薙剣の名前の由来とされているが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」の説が有力。倭建命が病死したのち熱田神宮に祀られた。

歴史
天皇の即位儀礼の際に三種の神宝(神器)を奉る儀礼が行われていたのはいつ頃からか。『古事記』には即位に際して神宝(神器)またはそれに類する品の宝剣に関する記事はない。『日本書紀』には以下のように見える。

允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。
清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。
顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。
継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。
宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」。
推古天皇前記十一月の条、「百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。
舒明天皇元年正月の条、「大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る」。
つぎは、即位儀礼の時ではないが、関連記事がみえる。

孝徳天皇前記六月、「天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ」。
封建の品を璽・璽符・璽印という漠然とし書き方をしており、鏡と剣との名をあげているのは、継体紀と宣化紀の二つのみである。宝物は元は二つであったのではないかという疑問が出てくる。

690年の持統天皇の即位の際に臣下の忌部氏が剣と鏡の2種を献上している。『日本書紀』持統天皇四年(690)正月の条に、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」とある。後に中臣氏が3種説を主張して勾玉が加わった。

尚、以下の説は神器が宮中にあったという説を元にしている。伊勢神宮などでは神器が持ち出されたという記録はない。

1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで平氏と源義経率いる源氏が戦った際に、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。またこの時後鳥羽天皇は三種の神器が無い状態にも関わらず後白河法皇の院宣を根拠として即位している。

足利尊氏が後醍醐天皇の建武の新政に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐は、自分が北朝に渡した神器は贋物であり自己の皇位が正統であると主張して吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収し、後光厳天皇はじめ北朝の天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は「神皇正統記」で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調する、がしかし神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位したという先例があり、三種の神器は即位の絶対条件ではない。

南朝が保有し続けた神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋により南北朝が合一された際に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。

室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、勾玉が後南朝に持ち去られたままになるが、その後1458年(長禄2年)までに奪還されたと伝えられる。

明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる南北朝正閏論と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、南朝が三種の神器を保有していた事を根拠に南朝が正統であると決定する。

現存・消失論議
神器が現存、消失しているか様々な説が飛び交っている。いずれにしろ、三種の神器は、「天皇家が所有しているとされていること」に意味があるともいえる。つまり、「天皇家が三種の神器を所有している」というより、「天皇家が所有しているもの」こそが、三種の神器なのである。

そもそも実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」(分身つまりレプリカ)であり、実物については祭主たる天皇自身でさえ実見を許されていないという。このことからも、実物が現存しているかどうかは確かめようもない。

伊勢神宮の神体として祀られている八咫鏡は古来のものが現存しているといわれる。御桶代と呼ばれる入れ物に入って祀られており、式年遷宮の際には、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれて新しい本殿に移される(一説に、伊勢の八咫鏡は式年遷宮と同時に壊され代替わりを行っているというが、この説は論拠不明)。
宮中三殿の賢所に八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られているが、これは火災等により焼けた記録がある。現在皇居の賢所には、2個の神体の御桶代があり、ひとつは火災等で焼けたものをそのまま御桶代を新造して安置している。もうひとつは火災で焼けた後で用意された代用品の鏡が入っている[要出典]。これらは源平の壇ノ浦の戦いにおいては回収された。
熱田神宮に祀られている天叢雲剣は古来のものが現存しているとされるが、一説には、平氏滅亡に際し海に没したとされていることから、三種の神器の中で現存しない物であるとも言われている。
皇居の神剣(天叢雲剣の形代)は、源平の壇ノ浦の戦いにおいて、二位の尼が安徳天皇を抱き腰に神器の剣を差して入水したため一緒に水没したが、この剣は神剣そのものではなく形代であったため、後に改めて形代としての剣を伊勢神宮の神庫から選び出し、それが現在皇居に存在している。
勾玉は、源平の壇ノ浦の戦いにおいて、二位の尼が安徳天皇を抱き勾玉の箱を奉じて入水したが、その際に箱ごと浮かび上がり、入水を目撃し急ぎ漕ぎ寄せた源氏方によって回収された。この勾玉は古代のものがいまも皇居に現存しているとされる。

2009年01月20日

露地(ろじ)

露地(ろじ)とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。

(一般的には露地とは屋根などの覆いのない地面のこと。露地栽培、露地いちごなどという。)

本来は路地であるが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいてこの「露地」という名称が登場している。これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。
小間の茶室に付随する簡素な庭園は、広大な敷地を持つ寺院などではなく、敷地の限られた都市部の町屋において発達したと考えられる。こうした町屋では間口のほとんどを店舗にとられていたため、「通り庭」と呼ばれる細長い庭園が発達していたが、さらに茶室へと繋がる通路、「路地」が別に作られるようになった。『山上宗二記』には堺の市中にあった武野紹鴎の邸宅の四畳半の茶室の図が掲載されており、図によればこの茶室が「脇ノ坪ノ内」という専用の通路と「面(おもて)ノ坪ノ内」という専用の庭をもっていたことがわかる。同じころ奈良の塗師松屋松栄が設けた茶室の図には飛び石の記載があり、また待合の原型と思われる「シヨウギ(床几)」の書き入れもある(「松屋茶湯秘抄」)。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

千利休の時代には更に茶室の建築が盛んとなったが、当時の数寄者達はこぞって建築の創意工夫をしていた時期であり、いわゆる利休風の茶室もこうした状況で熟成された。千利休は晩年にいたって草庵風の茶を完成させ、田園的・山間的情趣を表現の主題とし、茶の室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとしている。
なお躙り口の発生に関しては資料が不足しており、流布している利休の創作という主張も確たる根拠があるわけではない。但しこの躙り口によって、それまで中立ちに際しての待合に用いられていた縁側が取り除かれ、腰掛待合が別に設けられるようになった。また手水鉢に代わるつくばい(蹲踞)もこの時期に完成したものと考えられる。

露地には樹木等は里にある木も植えず人工を避け、できるだけ自然に山の趣を出すため、庭の骨組みをつくるのは飛石と手水鉢である。後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになるほか庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれ、また廃絶や改修で不要となる橋脚や墓石などが茶人に見立てられ、庭の重要な景として導入されていく。こうした茶室の構造は敷地の広い寺院や武家屋敷にも取り入れられるようになり、中潜りや腰掛待合とつくばいを備えた現在の茶席に見るような様式化した茶庭が成立する。

こうして町衆の人々に育まれた茶の湯や茶庭はやがて、利休の弟子で武家茶道を発達させた古田織部や小堀遠州のような武将の手に移るころには、かなり内容が変化している。露地は広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなり、途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり、また見る要素を強くするようになる。平庭に近かった露地に築山をもうけ、流れや池までもつくり、また石灯籠が重要な見どころとなっていく。ここには寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があったがこうした庭園の例としては桂離宮の庭園が現存する。

織部や遠州の茶や庭園は利休のそれに比べると作意が強いといわれ、利休が作意をも自然らしさの中に含みこもうとしたのに対し、織部の鑑賞を重視した茶庭には、作意が表面に押し出され、飛石や畳石を打つときは大ぶりなもの、自然にあまり見られない異風なものを探し求めたとされる。それまで飛石には小さい丸石を使っていたのを織部は、切石のしかも大きいものを好んで用いているほか、自身が考案したと伝えられる織部灯籠のきりっとした形は彼の作風がよく現れ、露地にあっても作意の横溢したこの「織部灯篭」をつくばいの鉢明かりとして据えるなど興趣をこらしている。なおこの織部灯篭は、その竿部分にマリア像らしき像を掘り込んでいることから別名「キリシタン灯篭」ともいい、織部がキリシタンであったとの憶測も呼んでいるが、像がマリアであることも織部がキリシタンであったこともともに確証はない。

織部の弟子である小堀遠州は作庭の名人として知られるが、席中の花と庭園の花が重複することは興を削ぐとして禁止し、以後の茶道界の大部分で慣習となっている。